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あなたの家族を笑顔にしたい理由(わけ)

こんにちは! 「あなたの家族を笑顔にする」外装専門リフォームの辰尾俊樹(たつお としき)です。

「あなたの笑顔が私の宝物です」

なぜ、わたしが、「あなたの家族を笑顔にする!」ことを使命としているのか。その”わけ”を聞いていただけますか?

「滑川に、帰ってこい」

父といっしょの写真わたしの父は、富山県滑川市の干物屋の次男。東京の大学に入り、アマレスの選手でした。父が大学3年のとき、干物屋を継いでいた父の兄が、機械で腕を切断し、とつぜん祖父から連絡。

「帰ってこい」

父は大学をやめて滑川に帰り、実家の干物屋を手伝いました。その後、兄が仕事に復帰すると、祖父から「(富山市の)岩瀬で八百屋をやれ」と。父は渋々八百屋を開くことにしました。

当時お店も繁盛し、その勢いで2店舗目にスーパーを出店。ちょうどその頃からです。大手スーパーが進出し、じわじわジリ貧に。わたしが小学生の頃でした。

2店舗目のスーパーを出店するとき、父は多額の借金をしました。

その頃からなのです。父は朝市場に行って9時に帰ってくると、すぐにお酒を飲んでそのまま横になる。夕方4時になって、やっと起きてきたかと思うと、母に当たる。
「今日はなんで売上が悪いんだ!」

わたしは、お酒を飲んで母を責める父の姿を見るのがとてもイヤでした。機嫌がいいときは、「昔、かあさんと出会ったときはなぁ(笑)・・・」と昔話をしてくれる父のことは好きだったのに・・・

幼いころの写真

「ここから嫁に行かせたい」

中学になると、周りから「長男やから、しっかりしてくれ」と言われることが、プレッシャーでした。父の姿を見て、「継ぎたくない」と思っていたのです。

 

家を継ぐプレッシャーと父への不満で、中学1年のときから、グレ始めました。学校に行くとケンカばかり。2年になると、ツッパリの中心人物に。気が弱いので群れて力を振り回す。そして、なにより父への「困らせてやる』という当てつけでした。

大人になってそのためわざと目立つ行動に走り、酒、タバコ、しまいにバイクを盗み補導。母が学校に呼ばれることが、たびたび。

「俊ちゃん、もうこんなことやめてま。なんにしても味方になったげるから」と母から言われる言葉にありがたさを感じながらも、やめられない自分が・・・

そんなわたしも、サッカー推薦で高校に入学。ところが、3日で停学。2学期には学校から自主退学を進められ、高校を中退。

高校をやめたのですが、なにもすることがなく、1年間はただブラブラと遊んでばかり。

そんなわたしを父が見かねて、「今度、一緒に市場に行くぞ」と朝早く市場に連れて行かれました。すると、市場の仲買の社長に、父は「うちのあんま(息子)、よろしくお願いします」と頭を下げるのです。

16歳の終わりに、やっと職に就くことができました。それから、働く面白さを初めて体験しました。朝3時から昼3時まで、汗水たらして一生懸命働きました。
「おやじに救われた」そういう気持ちでいっぱいでした。

 

わたしが18歳のときのことです。5歳上の姉が、立山町のスーパーに嫁ぐことに。父は借金でお金がないのに、7百万円をかけて、自宅をリフォームしたのです。
そのとき、わたしは子ども心に思いました。

「これが親心なんだ。家をきれいにして、ここから嫁に行かせたいんだ」

 

「魔が差した・・・」

20歳のとき。友人から化粧品販売の代理店の話がありました。400百万出せば、代理店となって、富山に営業所を作る役目を負って欲しい、しかも収入はやればやるだけ入る、と。

魔が差したのです。

わたしは今まで聞いたことのないお金の額の魅力に釣られて、借金をして保証金を払い代理店に。

「これで裕福になって、おやじの借金返済の手助けをして、一気に返すぞ」と、父と母を助けてあげられると思ったのです。

その後、営業所を20箇所作り、富山県の支店長にまでなりました。収入も市場で働いていたときとはケタ違い。サラリーマンが馬鹿馬鹿しくなって、市場をやめてしまいました。

ちょうど、同じタイミングで、結婚。妻からは「大丈夫?」と言われながらも、化粧品販売の営業所作りにまい進していたのです。

ところが、本社の経営陣が保証金を返さないことで、警察沙汰に。捜査の手は、わたしにも及び、事情聴取されました。

21日間の拘留後、無実で釈放された日、門の外に父が待っていてくれたのです。

家に帰ると、父は「俊樹、おまえ、関係ないんだな?」と、真剣にわたしの目を見て聞いてきました。わたしは“信じてくれ”という気持ちで、「ぜったい、関係ない」ときっぱり答えました。

その日の夜、父が習字の筆で書いてくれた言葉が、その後わたしの人生を支えてくれたのです。
『人になれ、人の中の人になれ』

父は、その紙をわたしに渡し、一言だけ言いました。
「これを心の中に言って聞かせて、どっかにしまっておけ」

その後、わたしは、「2時間、一人にしてくれ」と言って部屋にこもりました。部屋に戻り、寝そべって天井を見ると、とめどなく涙が。

そして、父が書いてくれた文字を見ては、
「ありがたい・・・・・・でも、迷惑をかけてしまった・・・」
と思うたびに、涙が止まることはありませんでした。

 

おまえ、職人しろよ

自宅に戻ってから、いつも頭に鳴り響いていた言葉。
「おれ、富山にいて、いいんか?」
「(近所に知られて父のスーパーにも影響が出て)また迷惑をかけてしまった・・・」

現実には、もう普通の仕事に戻れない・・・
しかも借金がある中で、大きな利益が出る仕事ということで、教材販売会社を作りました。最初は「イケる!」と思った通り順調。営業マン2人とテレアポ部隊まで雇ったのです。

ところが、売上を上げることに追いかけられても、なかなか売上が持続しない。借金が雪だるま式に増え、ついには会社を閉めました。

 

釣り船の中で

「教材はやるべきでなかった」
またも打ちひしがれているとき、両親が親戚に相談してくれていたのです。そのおかげで、親戚から「おまえ、職人しろよ」と声をかけていただきました。わたしにとっては、再スタート。リフォームと配管のメンテナンスの仕事です。

手取り23万円。昼も夜も働きづめ。

一生懸命、働きました。「追い立てられるものがない。お金じゃない」そんな思いで、がむしゃらに働いたのです。
「汗をかく仕事を忘れていた。ぼくは汗をかく仕事がいい」

そのうちに、年下の先輩から「辰尾さんて、がんばるんだな」とほめられたり、
取引先の社長から「辰尾という人間、信頼できる。あいつやるぞ」と指名してくれるようになりました。

「必要とされている!」

そうやって、よろこばれることがうれしくて、「もっとほめて!もっと信頼して!」とますます仕事にのめりこんで行ったのです。

 

28歳のとき、もっとリフォームの技術を上げたいと思い、エアコンなしの中古トラックと工具を購入して、リフォーム工事の一人親方として出発。

自分で解体工事、コンクリート詰め、配管。それが初めての仕事でした。4年間、必死で仕事をしているうちに、前の会社で仕事を発注してくれていた社長やハウスメーカーからも仕事が来るようになりました。

ところが、38歳の頃には仕事量が減りだし、単価も下がり、赤字の現場が出てくるようになったのです。

「どうしよう・・・」とインターネットで検索していると、新築のハウスメーカーが、フランチャイズを募集。「これで下請けを脱出できる」そう思って、フランチャイズに加盟しました。

チラシを撒いて集客し、注文住宅を建ててそれをモデルハウスとして一定期間借りるという仕組みでした。1年目は、このサイクルが順調に回り、妻と「軌道にのったのぉ」と話していたのです。

 

「いかったぁ。ちゃんとやっとるのぉ」

5年前の41歳のとき。父が病気で入退院を繰り返し、やせ細って杖がないと歩けない状況になりました。ある日、病院から外出許可をもらい、自宅に戻ってきていた帰り際のこと。

「おい、俊樹の作っている家、近くにあるかぁ?」
と父が突然言い出すのです。車でわたしが建てている家を数軒見て回ると、父は「いかったぁ。いかったぁ。ちゃんとやっとるのぉ」とうれしそうに言ってくれました。

車で病院まで送る途中に、ふと父が思い出したように言ってくれた言葉を、わたしは生涯忘れられません。

「なぁ俊樹。あの『人になれ、人の中の人になれ』と書いた紙、まだ持っとるかぁ?」

わたしは、父が書いてくれた紙を免許証の中に入れて、いつも持ち歩いていました。
そのことを聞くと、父は、「ならいかった。ずっと、持っとれ」とうれしそうにうなづいたのです。

病院に戻って2日後、父は息を引き取りました。車の中での言葉が、父との最後の会話でした。

納棺後、お通夜の夜、わたしはどうしても一人になりたくなりました。一人家に帰り、父の部屋でお酒を飲みながら父のアルバムを見ると、自然と涙が。

「若いときから、ずっと迷惑ばっかかけて悪かったのぉ」
「おれの失敗のけつをおやじがいつも拭いてくれとったのぉ」
「んっながに(なのに)、今すぐに墓も立てることできんぞぉ・・・」

お酒をちびりちびりやりながら、そう父に語りかけると、とめどなく涙があふれ出てきたのです。朝の4時まで、ずっとその言葉を繰り返しては・・・・・・

 

「あなた、リフォームしかないがぁ」

その後も順調に新築の工事が受注できるようになりました。2010年4月、建てた2棟の入金がありません。わたしはトラブルに巻き込まれたのです。何千万円という建築工事費の支払いはあるが、入金はない。

「もうだめか・・・」

そう絶望し、会社を整理することばかり考えていました。
「またこういうトラブルに巻き込まれて・・・なにをしたらいいのか・・・」

部屋にこもっては、インターネットで、真剣にありとあらゆる仕事を検索しては、「もう建築業から逃げよう」それだけを考えていたのです。

「おれの人生は、なんだったのか?こんな失敗ばっか・・・」
自分が情けなくて、情けなくて、しょうがなかったです。

ある日、仕事をしないでパソコンばかり見ているわたしを、妻は見かねて言うのです。
「あなたにはリフォームしかないがぁ。それで行くしかないねかぁ」
「リフォームかぁ・・・おれのスタートはリフォームだったよのぉ」
とわたしが言うと、妻がキッパリ。
「スタートにもどれば、いいがっ。コツコツやっていけば、やれる!!」

妻のその一言で、もう一度リフォームからやり直そうと思ったのです。

 

「わたしの使命」

娘とスキー教室昨年8月からチラシを撒き始めると、思った以上に反応があったのです。新築より金額は低いけど、リフォームでなんとかやっていける。

しかも工事をしたお客さんの反応が、今までとは違う。

ある日、外壁の塗装をしているお客さんのところに伺いました。ご主人からいつも1時間以上いろいろなお話を聞いていたので、訊いてみました。
「この家も17年経つと、いろいろな想いもあるんじゃないですか?」

すると、ご主人は、感慨深げに話してくれたのです。
「もとは寒い家でした。単身赴任が多く女房に迷惑をかけてきたので、あったかい家を建ててあげたいと思って建てたんだよ」

わたしは、そうなんですか、と聞いていると、
ご主人は、ポツリと話されたのです。
「次は、坊主(息子さん)のためになぁ・・・」

そこで、わたしは、「奥さんやお子さん想いの方なんだなぁ」と思い、提案させていただきました。リフォーム工事には、地鎮祭がありません。地鎮祭の代わりに、外壁を塗り替える前に、壁にご主人の想いを書いてもらおうと。

ご主人は最初は、えっ?という表情でしたが、しばらく考えて書き出しました。

『家族元気で暮らせるように』

 

外壁塗装の工事が終わった後すぐに、お客さんのところに訪問。ご主人が以前壁に書かれたメッセージを、写真に撮り額に入れたものを届けるためです。そのメッセージ写真をご主人にお渡しすると、「これからなんでも細かいこというかもしれないけど、頼むな」と。

そして、「この額は家宝にしとくよ」と話されると、ご主人の目から涙が。

工事完成から2週間後に訪問すると、ご主人は、息子さんが結婚式を挙げられたことを教えてくれたのです。
「天候が悪い中、よくやってくれた。実は、坊主が嫁さんもらったんだ」

 

娘の結婚式あるとき、わたしに外装工事を依頼される方は皆、工事が終わったあとに、お子さんが結婚式を挙げられていることに気がつきました。

それで、父が姉の結婚式の前に、お金がないにもかかわらず、家をリフォームしたことを思い出したのです。

「そうか!これが“親心”なんだ!」そう確信しました。

ある日、妻が言った一言で、わたしの方向が決まりました。

「あなた、外装リフォームの仕事をしているとき、楽しそう。
わたしペンキ屋の娘だから、わたしも楽しいの。
お父さんが生きていたら、よろこんで手伝ってくれるよ」

子どもが巣立つとき、「どんなことがあっても、しあわせになってもらいたい」と想うのが親心。
そういう結婚適齢期の子どもを持つ親が子どもを大事に思う、親心に応える外装リフォームで行こう!そう決心できたのです。

 

父の家族への想いを受け継いで、
「あなたの家族を笑顔にする!」ために
全力を尽くします。
そして

「あなたの笑顔が私の宝物です」

富山県富山市住宅塗装リフォーム笑顔の家 辰尾俊樹の署名

富山県(富山市.高岡市.砺波市.滑川市)外壁塗装リフォーム:笑顔の家